海が無くなった町で
ヨソモノが見た6年後の3月11日

2017.6.11

福島県いわき市豊間地区。かつてどこからでも海を見渡せたこの町には海抜7.2mの防潮堤が建てられ、海は全く見えなくなった。あの日からまる6年。rajomonの嶺隼樹がこの町を訪ねた。震災前も、そして震災後も縁もゆかりもなかった“ヨソモノ”が見た被災地の現状をありのままにレポートする。

壁のようにそびえたつ防潮堤に近づくと、波の音だけが聞こえてくる。壁の向こうには砂浜と海があるはずだ。しかし町からその風景を見ることはできない。

東日本大震災から6年後の3月11日、この日を初めて被災地で過ごし、空気を肌で感じるため福島県いわき市豊間地区を訪れた。

そもそもは、津波被害のあった地で建設が進む防潮堤がどんなものなのかを見に来たのが昨年2月、私の最初のいわき訪問だった。いわき市では一律で海抜7.2mの高さの防潮堤を作ることに決まり、豊間地区でも例に漏れず工事が行われている。二階建ての家の高さに近いこの防潮堤によって、海は見えなくなった。

年間を通して温暖で水族館もあるなど、海を大きな観光資源としていたいわき市にとって、当然負の影響は大きいはずだ。

防潮堤の高さのかさ上げは震災から半年も経たない時期に決定された。津波の恐怖も記憶に新しく、家が全半壊した住民の避難先も散り散りな中での決定で、客観的・科学的な意見が反映されたとは言い難い。しかし住民たちは既に防潮堤が建ってしまった現実と向き合い、その上でこれからどうしていくかを模索し続けている。

3月11日(土)当日。

まず朝に豊間地区の隣の薄磯地区で行われる慰霊碑の除幕式に行く。参列者は百数十人程度で、うち半数程は喪服姿だった。住民代表などの挨拶の後はいわきの伝統芸能であるじゃんがら念仏踊りが行われた。じゃんがらはかねや太鼓を鳴らしながら家々を踊り歩き供養して回る踊念仏の一種で、震災後はいわきの慰霊行事では頻繁に行われているという。6年経ってからの慰霊碑建立は遅いようにも感じられるが、建立場所の調整に時間がかかったとのこと。今回慰霊碑が建てられた薄磯地区は全て真言宗の家であるため問題が無かったが、複数の宗派が混在する地区では慰霊碑を建てることもなかなか折り合いがつかず難しいことが多いと聞いた。

11時からは、豊間地区の災害公営住宅(主に津波被害で住居を失った住民のための団地)の集会所で、慰霊のためボランティアで訪れたダンサーと演奏家による公演を見る。昼食はいわき市に来るたびに伺っている小名浜地区の鮨兼へ。大将の日向寺さんが握る鮨がとても美味しい。しかし震災後いわき市は、福島第一原発に程近いこともあり漁業の自粛が続いていて、地元ならではの地魚を出すことは残念ながら今でも出来ない。「獲れるようになった時は言ってやっから。タコなんか、かめばかむほど味が出てくる」

14時を過ぎ、地区全体の6周年式典が行われる塩屋埼灯台下のデッキへ向かう。震災後毎年この日に行われてきたであろう式典には、2〜300人ほどが集まっていた。葬儀会場のような物悲しいBGMが流され、演出されたような空間にいる人々の様子には、ある種の“慣れ”のような雰囲気も感じられる。ただそれは、終わったわけでも区切りがついた訳でもなく、原発事故の影響をこれから半永久的に受け続け、若者が減り高齢化が進み、海は見えなくなり、様々な問題を抱えるこの町でこれからも生きていく人々の、現状に耐えて前に進んでいくための慣れなのかもしれない。

14時46分、黙祷。

「その時刻に近づくと恐怖心が湧き上がってきて、海が見える会場から離れる人も未だにいます」。豊間復興商店街の宿「B&B きゅういち」の遠藤玲子さんはそう語る。大勢の人が集まったように思った式典だが、地区の中でも行かなかった人は少なくない。その心情は、わかるようでやはり想像が及ばない。

黙祷と式典が終わると、皆、波が引くようにいなくなっていった。

その後は内陸に向かい、有名な温泉街である湯本温泉で行われたエイサーの催しへ。じゃんがらとエイサーが同じ踊念仏の起源を持つことで東京・沖縄のエイサー団体と交流が始まり、毎年この日にイベントを行なっているというが、この地域まで来ると津波被害が及ばなかったためか雰囲気も変わり、エイサーを見にきた観客も普通に楽しんでいる様子で、言われなければ慰霊のイベントであることは感じられない。

ここに移動するときに乗ったタクシーの運転手に取材に来た旨を話すと「そうか、今日は3月11日か…」と思い出すように言ったのが印象に残った。もちろん、彼がそう言いながら何を想ったのかは想像するしかないが、同じいわき市内でもこれだけ感覚が異なる。

翌12日、豊間地区の防潮堤を乗り超えて浜辺に出ると、多くのサーファーが朝からサーフィンを楽しんでいた(駐車場の車のナンバーを見ると県内外から集まっているようだ)。もとは海水浴場だったこのビーチは鳴き砂として有名だったほど砂の質が良く歩きやすく、遠浅で、私が今まで見た中でも指折りの美しい浜辺だった。

当たり前だが海は無くなった訳ではない。だが海と、町と、人の何かが繋がっていない。そこには7.2mの防潮堤が象徴するような断絶を静かに感じる。住民とそうでない人と。また住民同士で。そして、いわきと私が住む東京も残念だが繋がっていない。いま、東京での日々の中でどれだけ被災地の情報が入ってくるだろうか。一部のニュースやドキュメンタリー番組を除いては、「被災から立ち直って頑張っている人たち」の笑顔しか映し出してくれない。大勢の人生を変えた大震災はもう終わり、今や過去の話ということになりつつある。確かに、縁もゆかりも無かった私がいわきを訪れて出会う人々はみな温かく魅力的で、街を歩いても重苦しい雰囲気は無く、確かに復興に向かって前進しているのだと思う。また、「もう被災地と呼ばれたくない」と思う人も一定数いるだろう。そして今年、「一定の節目を越えた」との理由で毎年恒例だった3月11日の首相記者会見は打ち切りとなった。

かつてはどこからでも海を見渡すことができた町。その海が無くなった土地で、7年目の “震災後”が始まっている。

筆者

みね 隼樹じゅんき

映像制作会社勤務のディレクター兼ドローンパイロット。ドローンキャリアは2年程度で、飛行時間にして70~80時間。JUIDA(一般社団法人日本UAS産業振興協議会)という、ドローンの産業活用や発展を目的とした団体の操縦技能証明/安全運行管理者証明を取得。2016年よりいわき市に通いはじめ、取材を続けている。