実験場としてのrajomon

2018.03.08

あれは3年ほど前、2015年の春先のこと。

「栗原さん、“メディア”、作りましょうよ!」

と、目を爛々と輝かせて声をかけてきたのは、東日本大震災をきっかけに知り合った、ネットメディアで新しい映像ジャーナリズムを実践しつつも、その行く末の「手強さ」に悶々としている若手の面々だった。

「うん。おもろい。映像屋でそういうことやってるの、少ないしね。」

ということで、rajomonの原型のプロジェクトを始めてから、3年近くも経ってしまった(個人的には、その間に、シェアハウスに住みはじめ、立ち上げて10年以上続けていた会社を半分抜け出て再独立し、長野で二拠点居住をはじめるという…、四十路にしては目まぐるしい数年間だった)。

ようやくローンチしたのが2017年の春、それから今日まで約1年。その歩みは「“遅々として”進んでいる」といったようなものだろうか。ここであらためてrajomonってなんなんだ、と自問してみる。

一応、口上らしきものは作ったのだけれど、正直まだ、よく消化しきれていない。個人的に思うのは、たぶんこのメディアは、「実験の場」であること、そして「映像を中心としている」ということくらい。

だけど、そんなメディアだからこそできることがあるのかもしれない。そう気づいたひとつの例をあげてみたい。

去年の8月15日、rajomonは靖国神社でインタビューを行った。その中で、インタビュー対象者がある新興宗教の名前を連呼したのだ。「〇〇(宗教名)の教えのもとに…」と訴える彼らのコメントは、既存のメディアであれば当然削除だろう。削除せざるを得ない(このコラムでは文脈には関係ないので固有名詞は控えるが、興味がある方はコンテンツをご覧ください)。

しかし、このコンテンツが定めた編集ルール「インタビューに応じた“すべての人を”“順番通りに”記録する」に従うならば、削除することはできない。かくして完成したコンテンツは、その宗教名が何度も連呼されている。しかし、結果としてそれがその宗教の宣伝にもなったわけでも批判にもなったわけでもないだろう。おそらくそこで浮かび上がったのは、「ある特定の新興宗教を信じるという行為がもたらす帰結が如実に浮かび上がった」ということだと考えている。

特定の政策や信条を「批判する」あるいは「主張する」以外にも、よのなかの真実を浮かび上がらせることはできる。それは物語やアート、フィクションの分野では一般的な手法かもしれないが、ニュースサイトのあり方としても可能性があるのではないか。

それは決して「スッキリ」も「スカッと」もしない視聴体験かもしれない。むしろ「ざわざわ」「もぞもぞ」するものかもしれない。コンテンツを視聴してくれた方々からもそのような感想を多く頂いた。しかしそのような感覚が、実験的メディアであるrajomonの可能性なのかな、と考えている。

このような試みは、たぶんPVや視聴数にとらわれてしまう既存メディアではなかなかできない。ましてや、お金の出どころを気にしている限りは、かなりできない。制約を受けない立場だからこそ出来ることを模索していくつもりだ。

いずれにせよ、この荒削りなrajomonというメディアを、少しずつ育てていきたいと思います。そして、その試みに「ピン」と来た方がいれば、連絡くださいませ。仲間はいつでも募集中です。

これからのメディアと社会の行く末が、少しでも明るいものとなりますように。

2018年3月8日 rajomon
編集長 栗原大介