日本初の「地域オウンドメディア」実践者が直面した大震災
災害時に試されるコミュニティの地力(前編)

2017.9.23

地域おこしや移住ブームと相まって、今日、日本全国でローカルメディア、オウンドメディアは花盛りだ。しかし、福岡県東峰村のケーブルテレビ局「東峰テレビ」の総合プロデューサーを務める岸本晃(63)は、20年以上も前から「誰でも情報を発信できる」時代を見越して、全国で住民参加による地域メディアを地道に作り上げてきた人物だ。
この東峰村は、2017年7月、記録的な大雨に見舞われた九州北部豪雨で、死者3名、家屋倒壊33軒(全壊25、大規模半壊8)の被害を出した。人口2200人ほどのこの村は、7年前から「東峰テレビ」が運営され、住民参加の番組づくりが進められてきた地域でもある。
「地域に入り込む」とはどういうことか? 岸本が運営するメディアはコミュニティにどのような役割を果たしているか? さらに、「被災」という非常時にそれらはどのように機能したのか? 地方部、都市部に関わらず、あるいはメディアに関わる人に限らず、地域やコミュニティに興味のある多くの人に参考となる活動をレポートする。

手のひらサイズの小さなビデオカメラを手に、岸本晃は朝から車を走らせていた。人口2200人ほどの村、朝から激しい雨に打たれたこの日、外を歩く住民はほとんどいない。そんななか、1人でも道に人を見つければ車を停め、声をかける。「取材です」「撮影します」「少し話を聞かせてくれますか?」といったような一言はない。

岸本「やあ、今朝の雨はひどかったね? あっちの道、通れないって聞いたんだけど。」

村民「今日また雨が降ったきね。止めよるみたいよ。」

岸本「お宅は大丈夫やった?」

村民「近所の家は3軒流されたけん、うちは大丈夫。」

小さなカメラが岸本の胸元にあるだけで、答える方も聞く方も、そこには「取材される側とする側」という、取材にお決まりの関係性をほとんど感じない。こたえる住民にも撮られているという意識は少ないようだ。地元民どうしの雑談にすぎないようにもみえる。

この日は8月下旬の週末。7月5日の災害発生から2ヶ月近くたち、被災した住民の多くが公民館などの一時的な避難所から仮設住宅へ移った時期だった。朝から激しい雨に見舞われ、道路の一部が閉鎖されたと聞き、村の様子をカメラに収めるために岸本の車は村内を走り回っていた。またしばらく走ると、顔見知りらしいお年寄りが荷物を運んでいるのに気づき、声をかける。

岸本「あれー、おばあちゃん、もう仮設(住宅)に移ったんじゃなかったの?」

村民「そうやけど、草が伸び放題で回りに迷惑かかるから、草刈りに家に戻ったんよ。一緒に刈ってくださる?(笑)」

岸本「いやぁ手伝いたいけど、これからまた取材に行かなきゃならなくて……」

村民「ジョークジョーク! 気持ちだけで嬉しいよ!」

足の具合が思わしくないなか、倒壊して使えなくなった家の庭に伸びた草を刈るための燃料を運ぶ村民に気遣いをみせる。「本当は手伝ってあげたいんだけどね。ああいう話を聞いちゃうと。」とつぶやく姿は、記者・ディレクターというよりも、自治会の世話役や村の職員のようだ。「だいたい住んでる人の顔と名前は把握している」と岸本は言う。

被災から約2ヶ月あまり、岸本はこのような取材を連日続け、住民の声をたんねんに拾い、撮影した素材をアーカイブ化していた。

地域づくりのためのメディアづくり

岸本は29歳から熊本の民放テレビ局に14年間勤務、その後、1996年に独立し「住民ディレクター」を養成する事業を続けていた。地域に暮らす市井の人々自らが番組の企画、取材、編集を行い、地域の魅力を発信するための場づくりを行うもので、全国各地で「地域オウンドメディア」を先導してきた人物だ。

東峰村の村営ケーブルテレビ「東峰テレビ」が開局したのは7年前の2010年。岸本はその実績を請われ、総合プロデューサーとして着任した。廃院となった村の診療所を岸本自身が借り受け、テレビ局舎兼自宅、かつ住民ディレクターが集うコミュニティスペースとして機能させた。

局内にある30畳ほどのスタジオには手作りのセットが組まれ、家庭用カメラと簡易的な生中継・編集システム等が設置されている。ここに集まった住民は撮影、編集、配信業務を行うだけでなく、出演者としてトークを受け持ちながら番組を作りあげる。番組終了後は、隣の和室に移動して宴会がはじまる。

もちろん番組のクオリティは、プロのテレビマンが制作したものには満たないかもしれない。しかしながら、開局から7年間、定期的に住民がメディアの作り手として継続的に局に集うという体制こそが大事と岸本は考える。「番組はおまけ。地域づくりが本質。住民みんながカメラを持って撮影しあったり、局に集まったりしていると、色々なことがわかってくるんです。ここに誰が住んでるとか、あそこは崖があって危ない所だとか。その蓄積が、今回の災害対応でも活きたんです。」

7月の災害発生の直後、岸本自身はたまたま東京に出張中だった。しかし、もっとも被災の激しい場所・時刻に、住民ディレクターがとっさに撮影した映像が残っていた。被災状況を記録する資料映像として活きただけでなく、被災者自身の主観的な視点を写すものとしても貴重なものだった。

それだけではない。7年間の住民ディレクターとしての村民どうしの関係性の蓄積が、実際の救助活動等にも役立ったと岸本は考えている。「今までの活動をとおして、避難訓練だけでは得られない『体に染み付いたハザードマップ』のようなものが身についていた。それが機能したんだと思うんです。もちろん避難や救助を中心的に担うのは行政機関ですが、それを補完したり、連携したりすることで、地域に役立てればいいんです。」

2つの大災害に直面したという「宿命」 ~大災害が「日常化」する時代に

実は岸本が大災害に見舞われたのは今回がはじめてではない。2016年4月に発生した熊本地震。単身赴任で東峰村に滞在している岸本だが、家族が暮らす益城町は地震の直撃を受け、自宅は大規模半壊となった。翌朝一番に自宅に駆けつけた岸本は、避難所からスマホを使って被害の状況を発信した。東峰テレビ局が情報の起点となり、そこから全国の住民ディレクターに映像が届けられ、ネット会議システムを利用して、双方向での情報交換も行われた。

21年間かけて築いた住民ディレクター養成や東峰村での取り組みが、大災害に見舞われた時にいかに機能するか、その役割の大事さを改めて認識する出来事だった。そしてその1年後、今度は岸本自身が滞在する東峰村が豪雨災害に直撃されることになったのだ。

「二度も大災害の当事者になって、『お役目を果たせ』と言われているような気がするんです。災害直後の救助活動から、その後の被災状況の伝え方、さらには復興に向けた地域コミュニティの醸成まで、今までの取り組みが活かせることは限りなくある。それと、マスコミが流す被災状況は悲劇に偏りがちですが、中に入っていると、人々のたくましくて明るい営みがあります。今はそれを伝えていきたいですね。」

地球規模の気候変動が現実化しつつある昨今。どこに住んでいても、災害は常に襲ってくるという覚悟が必要な時代ともいえる。地域やコミュニティを豊かにし、非常時にも役立つようなものにするために、岸本が挑む地域メディアの取り組みに学べる点は多い。

(後編に続く)

文:栗原大介
撮影:嶺準樹、安川慎也、栗原大介