2017.6.11
2017年3月11日、14時46分、東京の市井の人々は何を感じ、何をしていたのか? 渋谷、首相官邸前、国立劇場前(追悼式会場前)で行った街頭インタビューの模様をお届けする。
rajomonが行う新しい街頭インタビュー「あなたは・・・2017」。今回は、東日本大震災からちょうど6年を迎えた3月11日の東京の声を記録した。
「あなたは・・・」では、既存の街頭インタビューとは異なる以下の2つのルールを設けている。
つまり、「編集」をなかば放棄することにしたのだ。
今回のインタビューでは、以下の3項目を質問した。
撮影場所は、渋谷駅前、(毎週反原発系のデモが行われる)首相官邸前、(政府主催の追悼式典が行われる)国立劇場前の3地点。まずは映像で、そして活字で、それぞれの声を視聴して&読んでほしい。同じ内容でも、活字と映像で受ける感触の違いもまた興味深い。
街頭インタビューを斬新な手法で行い、既存の“街録”のあり方に一石を投じた、TBSの「あなたは・・・」というドキュメンタリー番組がある。タイトルには、この伝説的な番組への憧憬を込めた。
社会の「真実」を伝えることが報道やドキュメンタリーの役割だ、ということに異論をはさむ人はほとんどいないだろう。例えばニュース番組や新聞がしばしば行う街頭インタビューも、「世間の人々がどう思っているか」という「真実」に迫るためのものだ。
ただし、あらためて言うまでもないが、人選や編集により作り手の意図に沿わない部分はカットすることができ、意図に沿った「わかりやすいもの」になってしまう。作り手の恣意性から逃れることは難しい。「真実」に肉薄することなどそうそうできるものではない。
今回設けたルールによっても、そういう矛盾から完全に自由になれるわけではないが、編集をなかば放棄することで、従来の街頭インタビューでは削ぎ落とされてしまう“人の声”のグラデーションを、なるべく鮮やかに届けられればと思っている。
同じ質問に対する答えは、人それぞれ、すべてバラバラだ。バラバラだからこそ、すべてをとても「いとおしく」感じてしまう。その「いとおしさ」が、この試みの魅力なのかもしれない。
男性Aアメリカにいましたね。何してたやろうなあ。向こうの時間は夜中なんで寝てましたね。
男性B学校にいて、学校で避難していました。
男性Cまったく同じです。学校で避難して。
男性B江東区の方の(学校)。パニクってた記憶しかないです。
男性Cなんていうか、彼(男性B)と同じなんですけど、ずっと焦ってました。
女性A子ども(女性B)の卒業式。
女性B私の卒業式。
女性A中学、あ、いや小学校の卒業式。うん。都内です。
rajomon当日地震でパニックになりませんでしたか?
女性Aあー、ごめんなさい。じゃあその当日ではなかったかもしれないですね。そうですよね。
女性Bあぁそう。私が家に1人でいた日だ。びっくりした。
女性Aそうだそうだ。(当日は)子どもと離れていたので、どうしているかなって思いましたね。
男性D高校2年生でサッカー部に入ってたんですけど、部活をしていました。横浜の方の高校で、部活が中止になって、校庭の真ん中に集まって避難していました。町なかの信号が止まってしまって、なかなか帰ることができなかったです。
男性E中学校で授業を受けていました。終礼みたいなのをやっていて、座ってたらけっこう揺れはじめて、隣の席の女の子がトイレに行っていて、すごく怖がって帰ってきた顔を覚えています。
男性F6年前? 覚えてないよそんなこと。あそうか、震災の日ってことだね? 勤めてましたよ。私医者なので病院に勤めてました。けっこう大きな地震があるなと思いましたけど。横浜でしたからそんなに、ちょっと揺れる程度でしたけどね。
男性G6年前? あぁ…。職場で仕事してました。慌てて大変だぁ!って言って外に逃げましたけど。みんなに「逃げましょう!」って言ったんですけど、上司というか年配の方は落ち着いていまして、外に出たのは私ともう一人の人だけだった(笑)。
男性H映像の仕事をしていて、会社で編集をしていました。実際に揺れがあった後に現場に行く仕事があったので、交通機関がどうなってるんだという感じになったので、タクシーで現場に向かいました。その時点では世間的には重大さが分かってなくて、日本橋の方の現場だったんですが、仕事が終わって夜になって、けっこうその辺で(町の人たちが店で)飲んでたんですね。そのへんからちょっと津波とかが大変なことになっていることが分かって(町中が)ざわざわしだしたって感じですね。
男性I出光美術館で地震にあったんですよ。銀座から中野の鷺宮(の自宅)まで延々歩いて帰りました。(美術館の)ビルの中なんですね。美術館からは「表に出た方が危ない。すぐには出ないように」と言われましたね。多分窓ガラスとかが割れて危ないみたいなことを言われたので。
女性C家にいたの。急いでトイレに駆け込んだの。(自宅は)秋葉原だから回りは全部ビルで事務所だから、電気が消えると思ってたんだけど、電気はずっと点いてた。(後日)みんなに「あんたの所だけ、千代田区だけね」って言われちゃった。次の次の日くらいに大阪に逃げたのね。東京駅は真っ暗でエレベーターもエスカレーターも動かないで、異様な感じだったよね。やっぱり放射能が怖かったから。主人だけ1人残ったの。仕事で川崎に行ってたから。一緒に逃げようって言っても、「俺はいいからお前たちだけ元気に生き延びてくれ」って言うから、小さな別れをして。(その後東京に)戻ってきたけど、良いか悪いかわからない。
男性Jちょうど買い物があってスーパーにいて、あと1分かそこらで家に着くって頃で、車でね。ばかに電線が揺れてるんだよ。「あれ?こんなに風が強いのかな」って思って一回車停めて。停めたらだーって車が揺れだしたから、あぁ地震だって。それで揺れが止まってから走って(家に帰って)娘に「大丈夫だったか?」って聞いて、「なんともない」って言うから、家を出て、近所の腰抜かしたおばさんたちが表に出てるから、(公団住宅の)通路の階に「大丈夫でしたかー?」って声をかけて回ったんだよ。
女性D家にいまして、娘が孫を連れてきていまして、びっくりしてテーブルの下に隠れました。これほど大きな事故だとは思ってませんでしたので、あとで本当にびっくりしました。
男性K高校1年生だったんですけど、原付の免許を取りに行って、合格した日に帰った後、公園でテニスしてたんですね。そしたら地震が起こって。周りでものすごい音がしてるなって気付いて、慌てて家に帰ったら大変なことが起きていたというのが震災の記憶です。
女性Eちょうど高校を卒業した時だったんで、家にいました。春休みでした。
女性F私は部活をしていたので、みんなで体育館にいて、帰宅難民になりました。
男性L私は仕事でオフィスにいましたね。
女性G(子ども2人と)3人で家にいました。
男性L(お子さんに向かって)覚えてる?
女の子H&Iいや、覚えてない。
男性Lあんまり覚えてない? 小さかったからね。子どもたちは覚えてないですけどね。
女性J友人とジムで運動してました。ジムの中で被災して、そこから避難した感じですね。
女性K私は会社にいまして、子どもが家に1人でいたので、電話がまだつながっていたので、電話したら(子どもが)大丈夫だったので、会社から自転車で急いて家に帰って。
女性Lちょうど会社にいたので、会議に出ていて。揺れを感じて、会社待機ということで、帰れなくなったので、終日会社にいました。
男性Aあ、今日か。飯食ってましたね。
男性B普通に歩いてました。
男性C髪切ってきました。
女性Aたぶん移動中です。
女性B(女性Aと)一緒にお買い物してましたね。
男性D友達と渋谷で待ち合わせで、電車に乗ってました。大学を卒業するので、新社会人の準備をしようかなと。スーツとかその他もろもろ、時計とか。
rajomonこれから1人暮らし?
男性Dそうですね。これから。
rajomonどこに引っ越すんですか?
男性D福島です。福島市です。
男性E電車に乗ってましたね。渋谷に来るために。今日この後先輩たちの追い出しコンパに行くために渋谷に来ました。
男性F今日? 電車に乗ってたよ。田園都市線。
rajomon今日は何しに渋谷にいらしたんですか?
男性F遊びと、これから仕事もあるんですよ。夜ね。
男性Gあ、今日? あぁもう過ぎたんですね。さっきまで人と会ってました。実際にボランティアで毎年(被災地に)行かせて頂いてるんです。そこで出会った人などを思い出したりしますね。1年に1回くらいは(被災地に)行けたらと思っています。
男性H事務所で仕事してました。ラジオをつけてたので、そういう話を(番組で)してたので、意識はしていました。
男性I経産省前で、呪殺祈祷僧団。お坊さんたちがやっている311の抗議行動ですね。それをカメラで撮っていました。
rajomonネット等にアップするため?
男性IYouTubeです。
女性C今日? テレビの前で(追悼式を)見ながら黙祷してた。でも嫌。思い出すとぞっとする。
男性J東電本社の前で皆さんと一緒にデモをやってました。はじめて行ったんだけど、いまいち3月11日にしては少ないような気もするんだよね。やっぱり東京も集まっている人がじいさんばあさん、私みたいな人ばっかりで。本当に反対するというより、運動かねがね来てるような人が多いのかな。一生懸命やってる人が半分、あとは烏合の衆みたいに集まって、枯れ木も山の賑わい、そんな具合だよ。
女性D3時に家を出ましたので、家にいました。私は今日ここに来たのは、この日くらいは忘れずに来なくちゃって。いつも金曜に(デモを)やってますけど、なかなか夜に出られないもんですから。せめて今日くらいはここに来て、きちんとそういうことに向き合わなきゃいけないと思ってきたんです。だけど、段々風化というか、あれだけ電気は大事って言ってたのに今もう元に戻っちゃったのは、福島の方たちにとっては悔しくていられない気持ちだろうなと思います。
男性K家で追悼式典の映像をみながら、町内会で黙祷のお願いがあったので、家族と一緒に黙祷をしていました。その後家を出てここに向かってきました。
rajomon学生さんですか?
男性K大学4年で、もうすぐ卒業です。早稲田です。今日で3年ぶりの(デモ)参加です。地道にやられている方がいるのはわかっていますが、なかなか毎週足を運ぶことができなくて。今日はたまたま土曜日で3月11日だったので、なんとか足を運ぶことができました。
rajomon原発問題に興味があって?
男性K僕はあまり詳しくはなく、専門的な知識もないですけど、家でじっとしているよりは、1人でも意思表示する人間がいたらいいかなと思って来ています。そんなに難しいことは考えてないです。
rajomon大学でそういう話はしない?
男性Kあまりしないですね。話せない空気があるわけではないですが、そういうことを言うと空気が凍ってしまうというか、こわばってしまう雰囲気があるので、あまりそういう会話はしないです。
女性E&F2人で会ってました。私が一ヶ月間、アメリカに海外出張で、昨日帰ってきたので、それで会ってました。
男性L今日は私は仕事をしてました。
女性G家にいたかな?
女の子H&Iうん。
女性G(3人は)家にいましたね。
男性L仕事終わりで家族みんなで来ようかって話をして、ここに来ました。忘れちゃいけないなということで。
rajomon毎年来られている?
男性L毎年私は来ています。今年はたまたま土曜日だったので、子どもたちも連れてきました。なかなか都内に住んでいると普段(震災を)気にかけることはできないですが、こういう節目の時には、忘れちゃいけないなと思い出して。子ども達にもそういう思いを持ってほしいなと思って来ています。
女性J今日に限らず毎年ですが、テレビの追悼式典を観ながら黙祷してます。震災の次の年から毎年、その日は他の予定も入れずに黙祷しています。
女性K私は今日は出かけてたので、そこで2時46分だ、と感じながら外にいました。
女性J私たち2人は姉妹なんですが、2人がお世話になった方が女川で津波で亡くなったんです。追悼の意味で毎年(国立劇場へ献花に)来ています。彼は中学生の時に家庭教師をしてくださったんです。2人にとってお兄さんみたいな存在で、家族ぐるみのお付き合いをしていた方だったので、すごく悲しかったです。
女性L今日は家で黙祷をしていました。去年から(国立劇場へ献花に)来るようになって。それまでは仕事で東北に関わっていたので(3月11日は)現地に訪れることが多かったんですが、担当が代わって出来なくなったので、都内で何かしたいと思って去年から来るようになりました。
rajomonどのようなお仕事だったんですか?
女性L企業として被災地で何ができるかということで、心のケアや、人を派遣するプロジェクトに携らせて頂きました。
男性A生活すべて変わりましたね。端から端まで。住む場所も関わる人も全部ですね。
男性B&C6年で変わったこと? ないです。
女性B大学生になった。
女性A時間の経つのが早いんだなという感じですね。
男性Dこの6年間、大学4年間という自由に使える時間の中で、自分の目で見ることが大事と思って、旅行など被災地に行くようになりました。宮城、石巻やいわきに2、3回ほどです。
rajomon東北に配属されたのは、それが影響している?
男性Dそうですね。東北地方に配属の希望を出してたので。
男性E中学生から大学生になったので、考え方も変わりましたし、あの頃の経験を活かして大人になれたかなと。震災を経験して、いつ(災害が)来るかわからないと思っているので、対策や悲しい思いをした方への対応とかを考えるようになりました。
男性F大きな変化はないですよ。勤めている病院は変わりましたけどね。
男性G職場が変わりました。子どもが2人だったのが3人になったり、東京から埼玉に引っ越したり。
男性H仕事が結構変わりましたね。6年前は会社員で映像の仕事をしていたんですが、今は独立してウェブの仕事をしているので。あと当時実家に住んでいたんですが、今は(一人暮らしをして)1人の家から事務所に通うというかたちで。
男性I新聞の政治面も読むようになりました。それまではあまり読まなかったですね。(デモには)震災から3年くらい経ってから参加しはじめました。最初の3年くらいは311のショック反応で(デモが盛りあがっていた)と思ったので、3年くらい経ってから始めた方が長く続くと思ったので。2014年に福島に撮影旅行に行ったんですね。フレコンバックとか無人の町とかを見て衝撃を受けました。6年経ってこれだけ参加している人がいるし、原発事故は全然収束していないし、危機感はまだみんな共有しているんじゃないかと思います。
女性C孫がいなくなっちゃったこと。その一言につきます。
男性J少しでも良くしたいなと思って、こういう運動に参加するようになったことかな。ところが、仲間にそれを言うと「お前いつから共産党になったの」って。俺の友達は必ず言うんだよ。だからテレビが取材に来ると「(撮るのは)よしてくれ」って言う。俺の住んでる地元で「○○さんいつからそんな(デモに)参加するようになったの」って評判がたつと住めなくなるから。世の中ってそんなもんですよ。
女性Dやっぱり電気を大切に使わなきゃいけないなと思うことと、こんなに色んなことが無責任なんだって。東電にしても政府にしても誰も責任とらないのかって。そういう気持ちがどんどん強くなっています。怒ってばかりいます。自分は歳だからともかく、子どもと孫と、小さい子ども達が、甲状腺のがんが増えてきてるとか、これから増えてくとか聞くと、許せないですね。
男性K政治についての関心が芽生えたことだと思います。高校1年生のときに大震災が起きたんですが、それまでは新聞も読まなかったし、政治って大人が勝手にやってるものだという意識が強かったんですが、その後は安保法制の問題があったりで、主体的に情報を集めたり抗議行動に足を運んだり、社会に対する関心が深まったのは大きな変化ですね。
女性F私は人のあたたかみや大切さ、友達や家族の支えがあって今の私がある、人の温もりをこの6年で教わりました。
女性E毎年献花しに来てるんですが、当たり前の日常って大切だなって思います。何か出来ることってお祈りすることかなと思って来ています。
男性L子ども達は小学校にあがったりとか、変化はありましたね。
女性Gそんなに変わらないかもしれないですね。
女性J熊本や鳥取でもあったし、地震、天災、何があるかわからない状態で「毎日を大事に」と頭では思っていてもなかなかね。後悔のないように一生懸命ですね。生きたくても生きられなかった人がたくさんいますから。頑張らなくちゃなって思います。
女性K6年で変わったことはあまり無いですが、地震がちょっとでもあると、「あの時の地震だ。大きくなるかも」って思うのは6年経っても変わらないかな。熊本でも東日本でも東京でも地震が起きた時のどきどきは変わってないかなと思いますね。
女性L難しいですね。人と人のつながりを大切に思うようになりました。仕事で、支援する立場で東北に入ったんですが、される立場の人たち、大変な思いをされているにも関わらずあたたかく迎えていれてくれて。そういった時に人と人とのつながりを感じることが多かったので、出会った縁を大切にしながら日々過ごしていきたいなと思います。